男性運動は、敢えて左派に残って戦うべきではないか

2026年10月27日 author:平田智剛

権威、歴史、秩序を重んじるのが右派。
平等、権利、解放を重んじるのが左派。

思想の左右にはさまざまな側面があるが、この記事では、いったんこう整理しておきたい。

右派は権威や秩序を重んじる。それゆえに、その権威や秩序そのものに変更を求めることには、左派よりも思想上の負担がある。

政治を批判するときは「現政権は左翼の傀儡だ」。
大企業の腐敗を指摘するときは「○○社は反日左翼だ」。

こうした説明を、SNSでは見かける。

「本来の社会は正しい。しかし、左派がそれを汚している」

この物語を使えば、権威や秩序への忠誠を維持したまま、現実の権力者を批判できる。逆に、自分たちが正当だと認める権威や秩序そのものを批判しようとすると、足場が揺らいでしまう。

もちろん、対立する二つの権威を比較して、どちらを支持するか考えることはできる。実際、それをしている真っ当な保守派も存在する。

だが、僕も含め、多くの人は複雑な対立構造をいつでも精密に理解できるわけではない。SNSでは特に、分かりやすい敵が求められる。

そして、反左派意識を中心にまとまっている右派にとって、その敵は左派になりやすい。

すると、もともとは左派と関係のない二つの権威の対立も、片方を「左派に乗っ取られた権威」と見なすことで整理される。

権威が、「左派に汚染された不健康な権威」と「左派から距離を置いた健康な権威」に分けられていく。

「左派から本来の社会を取り戻す」という建前を通さなければ、社会への不満を堂々と言いにくくなるのだ。

僕が右派に感じる構造的な不利は、ここにある。

社会に不満があり、それを変えたいだけなのに、その不満を語る前に「これは、もとをたどれば左翼のせいなのだ」という説明を仲間に通さなければならない。場合によっては、こじつけてでも。

陰謀論には「誰を敵だと思いたいか」が表れる

人は、信じたいものを信じる。

だとすれば、左右それぞれが信じやすい陰謀論を調べれば、誰を敵として想定しやすいのかも見えてくるだろう。

Alper・Imhoff(2023)は、23か国・2万人超のデータを用い、政治的立場と陰謀論的信念、その関係に国の腐敗水準がどう関わるかを調べている。

その議論では、左派型の陰謀論は政府や企業などの強力な主体を黒幕とする傾向があり、右派型の陰謀論には民族・宗教的少数集団のほか、外国や国際NGOなどを黒幕とするものがあるとされる。

著者らは、右派型にも強力な主体を疑うものがあるため、左右を単純に「上を疑う/下を疑う」とは区別できないとも述べている。研究本文

この研究が、僕の議論全体を証明するわけではない。右派が不満を語るたびに左翼を持ち出す、という研究でもない。

ただ、左派型の陰謀論では政府や企業という社会の中心が標的になり、右派型では外国や少数集団なども標的になるという違いは、興味深い。

僕の見立てでは、反左派的な言説では、こうした外国勢力や少数集団への敵意が、それらを擁護する左派への敵意と結び付く。そして社会の問題が、「左派と、その左派がかばう者たち」の問題として説明されていく。

ここまで少し小難しく考えたが、要は次の三つを言いたい。

  1. 左派には、平等や解放のために現状を変えるという原理がある。右派には、権威や秩序を守るという原理がある。
  2. その秩序に不満を抱いた右派は、「本来の秩序が敵に壊されたので、元に戻したい」という説明を必要としやすい。反左派意識の強い場所では、その敵が左派になる。
  3. だから、目の前の不利益を変えたい人にとって、右派としての正当化を毎回要求されることは、遠回りになる。

不満の原因が本当に左派にあるなら、批判すればよい。

しかし、そうでない問題まで左派のせいにしなければ語れないのなら、自分の要求より陣営の物語を優先させられている。

では、なぜ男性運動は「右っぽい」のか

僕はその大きな理由を、男性の不利益を軽視する人たちが、左派の側で「平等を代表する立場」を獲得し、男性の権利要求をそこから押し出してしまったことに見ている。

男性差別を無視しても、女性の権利を掲げていれば、平等を目指す人として扱われる。

その不均衡に男性が抗議すると、「男女平等を目指しているだけなのに、既得権益を持つ男性から攻撃された」と説明される。

すると、男性が何に抗議していたのかは消え、「平等に反対する男性」という姿だけが残る。

その説明を十分に吟味せず受け入れた人たちは、抗議した男性をミソジニストだとかネトウヨだとか呼ぶ。

こうして、男性は左派の側から押し出される。

そして、左派に話を聞いてもらえなかった男性に、右派が「お前たちの怒りは正しい。左翼が敵なのだ」と手を差し伸べる。

本人の目に、味方が右派しか残っていないように映れば、そちらへ向かうのは不思議ではない。

男性運動が最初から右派なのではなく、男性の権利要求を敵視する扱いによって、右派へ追いやられる。僕が問題にしているのは、この構造だ。

その結果、男性の苦しみを語る運動が、いつの間にか「女性と左翼に対抗する運動」として位置付けられていく。

なぜ僕がそう考えるのか。まず、僕自身が左翼への反感を募らせた例から説明したい。

ジェンダーギャップ指数は、誰の不利益を数えているのか

世界経済フォーラム(WEF)のジェンダーギャップ指数には、男性側の不利益を減点しない設計がある。

大学進学率を例にしよう。

女性40%、男性50%なら、女性対男性の比率は、

(40÷50)=0.8

となる。

ところが、女性50%、男性40%なら、

(50÷40)=1.25

だが、採点上は上限の1で打ち切られる。

つまり、この項目では、女性が不利なら減点される一方、男性が不利でも減点されない。男女同率と女性優位が、同じ最高点になる。

健康分野には別の基準があるが、この打ち切りは基本的な採点方法としてWEF自身が公表している。WEFの方法論

公開されているのだから、隠された計算ではない。

だが、僕が問題にしたいのは、公開されているかどうかではない。

男性の不利益を減点しない指標を、「男女平等」の評価として掲げてよいのか、ということだ。

もちろん、進学率の差だけで差別の存在や原因が確定するわけではない。また、一項目の満点は国全体の満点を意味しない。

それでも、女性が下回った場合だけを問題として数え、男性が下回った場合は平等と同じ点数にする設計の非対称性は残る。

「女性が男性にどれだけ追いついたか」を測る指標だと説明するなら、その用途は理解できる。

しかし、男女双方の平等を評価する指標として使うなら、男性側の不利益も評価に入れるべきではないか。

男性の不利益を問題として数えない。しかも、その指標で男女平等を語る。

僕は、そこにミサンドリー、つまり男性蔑視を感じる。

誹謗中傷だと怒られる覚悟で言うが、僕はWEFはミサンドリー団体だと本気で思っている。

関係者全員の内心に男性への憎悪がある、と言いたいのではない。男性の不利益が評価から落とされても、男女平等という看板を掲げられてしまう。その扱い自体を批判している。

そして、この限界を説明せず、順位をそのまま「男女平等の達成度」として扱うメディアにも、強い疑問がある。

女性の不利益を伝えるのなら、男性の不利益も伝えてほしい。「この指数では捉えられない」という理由で、男性の問題まで視界から消さないでほしい。

僕も、左翼全体を軽蔑していた

こうした「男女平等」の扱い方に腹を立て、僕は一時期、左翼全体を軽蔑していた。

まあ、ネトウヨだったわけだ。

男性側の不利益を訴えたい。それなのに、平等を掲げる側にその問題が十分に扱われていないと感じる。そうなると、その人たちだけでなく、「平等」「解放」といった言葉まで信用できなくなる。

だが、考え直すと、男性差別への反発から平等や解放の理念まで捨ててしまうのは、男性を軽視する人たちにとって都合のよい展開ではないか。

男性差別を無視し、女性差別だけに肩入れしながら、「私たちは男女平等を目指しています」と言う。

そこに男性が尊厳をかけて抵抗する。

その必死の抵抗が、平等を目指す社会に対する攻撃へと読み替えられる。

そして、その扱いに失望して右派へ向かえば、「やはり男性運動は右翼だった」と言われる。

男性を押し出した側の振る舞いは問われず、押し出された男性の思想だけが問題にされる。

僕自身、左翼への怒りに気を取られ、この構造を見失っていたのではないかと思う。

男性運動を右派へ追いやることで、誰が得をするのか

男性運動を右派に追いやれば、男性たちは、先ほど述べた遠回りを強いられる。

自分たちの苦しみを、そのまま社会への要求にするのではなく、「女性と左翼が敵なのだ」という物語を通して説明するよう求められるからだ。

この構造で一番おいしい思いをするのは、左派の中の反男性勢力ではないか。

「女性が平等を獲得しようとすると、女性を敵視する愚かな男たちに邪魔をされる」

男性運動が女性への敵意を前面に出せば、こうした説明が可能になる。男性が何を要求していたのかを検討せず、男性運動そのものを悪として描けてしまう。

そこで生じる非対称性は大きい。

左派フェミニズムは「社会」と戦える一方、右派アンチフェミは「フェミニズム」と戦うことに閉じ込められる。

フェミニズムは、雇用、教育、福祉、政治参加など、社会の制度に対して要求を出せる。

一方、女性やフェミニズムへの反発を運動の中心に据えたアンチフェミは、「フェミニズムに奪われたものを取り返す」という要求にとどまりやすい。

フェミニズムと関係なく男性が抱えている苦しみまで、フェミニズムのせいだと説明しなければならなくなる。

もちろん、アンチフェミを名乗る個々人が、独自の社会的要求を持てないという意味ではない。僕が問題にしているのは、運動の目的が反フェミニズムに従属することだ。

女性の権利獲得を目的とするフェミニズムは、その目的を語るために、必ずしも男性を中心に置く必要がない。

だが、右派アンチフェミの中心には、いつも「女性」と「左翼」がいる。

女性と左翼が何を言ったか。
女性と左翼が何を手に入れたか。
それにどう反論し、どう取り返すか。

自分たちがどんな社会で生きたいかを語る前に、相手の動きを待つことになる。

これでは、まるで寄生虫だ。

言葉を選ばずに言えば、右派に追いやられ、反フェミニズムだけを目的にさせられた男性運動は、左派女性運動の寄生虫になってしまう。

これは人間の価値を貶めるための比喩ではない。運動の議題も目標も、対抗相手に依存してしまうという意味だ。

宿主が動いた範囲でしか動けないなら、宿主の設定した議題を超えられない。

アンチフェミであることを運動の最終目的にする限り、原理的に、フェミニズムが設定した枠を超えられないのである。

敢えて左派に残って戦う

僕が考え付く限り、この現状を根本から打破する方法は、何度左派に裏切られても、それでも男性運動が左派に居続けることだ。

女性と左翼への反発だけを語る場所から、平等、権利、解放を自分たち自身の要求として語る場所へ戻る。

この記事でいう左派につくことで、初めて「社会」そのものを批判の対象に据えられる。

「女性から何を取り戻すか」だけではなく、「男性が生きやすくなるために、社会をどう変えるか」を問えるようになる。

女性運動に比べ、社会的な認知や組織化で、何十年も、下手すれば百年前後も、出遅れた男性運動は、最初に苦戦を強いられることを覚悟しなければならない。

それでも、くじけずに居続ける。

男性を軽視する人が左派を名乗っているからといって、平等、権利、解放まで明け渡す必要はない。

男性の不利益を訴えたときに「右翼だ」と言われても、その分類を受け入れる必要はない。

男性にも平等を。
男性にも権利を。
男性にも、押し付けられた役割からの解放を。

これは、左派が掲げてきた理念を、男性にも適用せよという要求である。

「男は稼げ」「男は耐えろ」「男は守る側であれ」という役割に苦しんでいるのに、左翼への反感から、その役割を肯定する秩序へ戻ってしまってよいのか。

男性の苦しみを、左翼を攻撃するための材料として使われるだけで終わってよいのか。

僕は、そうは思わない。

左派の側に男性蔑視があるなら、そこで異議を唱える。
男性の権利が平等の議論から落とされているなら、そこへ持ち込む。
男性の抗議を右翼の反発にすり替えるなら、そのすり替えを拒む。

そして、ネットで反発するだけでなく、集まり、要求をまとめ、デモをし、制度の変更を求める。

そうして初めて、「女性から何かを取り戻す」ことを超えて、社会に不満をぶつけ、自分たちの理想を追い求められる。

左派に認めてもらうために、男性の不利益を我慢するのではない。

男性の不利益をなくすために、敢えて左派に残って戦うのだ。

平等を名乗りながら男性を切り捨てる人たちに、平等の意味まで決めさせるつもりはない。

左派が「善い」から勧めているのではない

ここまでで僕は、読者を左派にオルグするためのプロパガンダをしてきたように見えるかもしれない。

いや、左派に来ようと言っているのだから、実はまったくその通りだ。

ただ、僕は別に、左派を褒めてなどいない。

少なくとも、僕が接してきたネット空間に限って言えば、右派の方が「まとも」だと感じることさえある。

これは、右派の言動をすべて肯定するという意味ではない。左派を名乗る人が、平等や人権を掲げながら、異論を持つ男性には侮辱的な呼び名を投げつける。その落差に、僕は強い嫌悪を覚えてきたということだ。

「ネット右翼」という言葉は1990年代末ごろに登場し、「パヨク」は2015年に生まれたとする解説がある。語の歴史についての解説

この二語の登場時期だけで、「左派は右派より15年長く相手を侮辱してきた」とは、厳密には言えない。それ以前にも別の罵倒語はあり、誰がどの言葉を使ったかも、この年代差だけでは分からないからだ。
それでも、左派より右派のほうが「まとも」かもしれないと考える、一つの重要な手掛かりにはなるだろう。

だから、よりまともで、より上品で、より道徳的に優れた人間でいたいなら、もしかしたら右派にいたほうがいいのかもしれない。(左派をならず者だとか、下品だとか、道徳的に劣っているなどとは言いたくないので、断言はしない。この文脈は各人が都合よく解釈してほしい)

それでも、現状に不満があり、男性の解放のために社会を変えたいと志すなら、この記事でいう左派の立場を取る方が合理的だと、僕は考える。

「善い」とも「悪い」とも言わない。目的に対して「合理的」なのだ。

だから、「本当は俺は右派だけど、男性の解放という目的のためなら、一時的に左派に来てみよう」でも構わない。

左翼が嫌いなら、それでいい。

左翼を好きになることを、男性解放の条件にはしたくない。

「男性解放という目的のためなら、嫌いなことだってやってやる」

そう考える右派を、少なくとも僕は歓迎する。

求めたいのは、陣営への忠誠ではない。男性の平等、権利、解放を、社会への要求として掲げることだ。

それでも、僕は根っこでは右派なのかもしれない

ここまで書いておいて何だが、僕は根っこでは右派なのかもしれない。

この記事での整理に従えば、左派は、秩序を守ることよりも平等、権利、解放という理想を優先し、そのために声を上げ続けようとする。

だが僕は、声を上げられない人であっても、平等、権利、解放を手に入れられる社会になってほしいと願っている。

声を上げる力がない人。
自分が不当な扱いを受けていることにさえ、気付けない人。
苦しみを説明する言葉を持たない人。

そういう人も、黙ったままで救われてほしいのだ。

法哲学には、イェーリングの『権利のための闘争』という著作がある。法や権利を実現し、守るための闘争の重要性を説くものだ。書籍紹介

その主張を、「闘えない人には権利がなくてもよい」という意味だと決めつけるつもりはない。

しかし、「権利が欲しければ、自分で闘わなければならない」という要求として聞こえるとき、僕はどうしても受け入れられなくなる。

闘えない人が報われないことまで、正当化されてしまうように感じるからだ。

声を上げることの大切さは分かる。だからこそ、男性運動も声を上げるべきだと思っている。

それでも、声を上げることを、救われるための条件にはしたくない。

そうである以上、たぶん僕は、左派としてのセンスに乏しいのだろう。

AIが発展した今なら、人間が見落としてきた弱者を見つける仕組みをつくれないだろうか。

スポットライトの当たっていない人の苦しみを拾う。
「強者」と呼ばれやすい属性の人にも、見落とされがちな弱者性があることを検知する。
本人がうまく説明できなくても、支援の必要性が伝わるようにする。

そんなことができないかと思い、僕は細々と研究ごっこを続けている。

人が声を上げ、その声が注目されなければ問題として認識されない。その仕組みを、少しでも変えたいのだ。

こうしてAIに、公平な判断を支える権威の役割を期待し、声を上げなくても権利が守られる秩序を求める僕は、結局のところ右派なのかもしれない。

もっとも、AIなら自動的に公平になるとは思っていない。男性の不利益を数えない指標を与えれば、AIもその見落としを引き継ぎかねない。僕が期待するのは、判断の根拠を確かめ、誤りを問い直せる仕組みを伴った権威だ。

そして、僕が求めるAIの権威や秩序は、あくまでも平等、権利、解放のための手段である。

その意味では僕は、右派的な手段を好む左派なのかもしれない。

声を上げられる僕たちは、声を上げる。だが、その先につくりたいのは、声を上げられない人も救われる社会だ。

僕が左翼なのか右翼なのか。その判断は、この記事の読者に委ねようと思う。

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