男は客体になれないー男性への暴力と主体性の強制ー

元始、男と女の関係は「平等」ではなくとも「相互補完的」であった。
男性には大きな権利が与えられる代わりに、大きな負担が要求された。
女性には、権利が制限される代わりに、男性ほどの「強者としての責任」を要求されない領域があった。
そういった異なる権利と義務の組み合わせによって社会が成り立っていた。
今、平等化によってその構造は解体され、その残滓として「男性は強くあるべき」という象徴的規範がある。
女性を客体に固定することへの否定がなされ、彼女らを自己決定できる主体として扱うべきだということが強調された。
しかしながら、男性に対しては主体であることを要求されたままにもかかわらず、男性も客体化されうるという側面の承認がなされることはなかった。
暴力・暴言をはじめとするハラスメントを受けるということは、自分の意思によって行為する主体であった人間が他者の意思によって扱われる客体になるということである。
そのため、男性が被害者になるという状況そのものが社会に求められる「主体たる男性」像と衝突する。
これが社会によって男性への被害の否定が行われる背景である。
そういった状況で男性自身が拒否したとしても、「イジリ」や「冗談」として軽んじられるケースも多々ある。
このように言語による再定義をすることで客体化を隠蔽されることは、男性の主体性への幻想の強化に繋がることとなる。
ラカンは「女は存在しない」という言葉を残した。
これは「女」という普遍的・完全な本質を持ったカテゴリーは存在しないといった意味合いである。
「女」が自然に完成された本質ではなく象徴秩序の中で構成された位置であるというならば、「男」も同様に自然的な完成された主体ではないともいえるだろう。
男が主体であるということは、女が客体であるということとの対比によってのみ成立する。
したがって男女は独立した二つの本質というより、相互に規定し合う象徴的位置として考えられる。
また、日本社会には我慢を道徳化する仕組みが比較的強く存在してきたということも関係してくるだろう。
耐えることを美徳とすると、客体として扱われてもそれに耐えられることが主体性の証明になるという逆説が生じる。
それだけではない。日本では耐えることが単なる個人の美徳であるのみならず、共同体を維持する能力としても評価される傾向にある。
これによって、個人の苦痛を犠牲にして集団の安定を維持するという構造が成立する。
共同体の維持が個人の主体性より上位の価値になったとき、我慢することが強制されることとなる。
日本には、道徳規範を通じて個人が主体性を行使する際のコストを高くする社会構造がある。
男性への暴力の軽視は、個人の身体・意思より共同体の円滑さを優先する規範の一例ともいえるであろう。
これまで、女性は「主体であることの否定」としての客体であった。
今後必要なのは、両性ともが互いを「自身とは異なる主体」であると同時に誰しもが客体となりうる両義性を持つと承認することである。
社会としては、共同体の維持のために個人が犠牲とならないような規範を形作るべきだ。
これらのことが、巡り巡って男性への暴力を軽視する風潮を弱めることに繋がっていくだろう。
(新実理人)

