処女神話をぶち破るためのお話

俺はマスキュリズムの立場から処女神話を粉砕していくためにいっぱい務めてきた。
俺は前から話をしてきたように処女を崇拝するのが凄く悪い理由を話してきたが今回は総集編としていきたい部分がある。
まず、処女を崇拝しながらヤリチンを崇拝するのはロジックが崩壊してることだ。
俺は最初からヤリチンを尊敬してるし相手をいっぱい落としていくスキルの高さというのは恋愛やセックスにおいてかなり有利なことになっていくのは否定できない。
もちろん俺は童貞だから悪いとか処女だから悪いとかそういう話をしてるわけではない。
しかし、セックスをするのがいいことであるという風潮とかを守る男性の利益を考えるなら処女神話というのは邪魔な障壁になる。
処女崇拝というのは男性経験を恥としてとらえるわけなので結局女性経験の多さも地雷と見なされる原因を作ってると言える。
もう一つ非処女は擦れるというのだが俺はこれについて論理的に説明できる人を見たことがない。
確かに男性経験が多い女性、女性経験の多い男性というのは遊び割り切り狙いも多く恋愛をしない人もいる。
もし性的経験の多さそのものが人間の幸福度を大きく損なうのであれば、性的に比較的開放的なヨーロッパ諸国で高い幸福度が観察されることをどう説明するのか。
もちろん、これは性的経験が幸福を生むことの証明ではない。
しかし少なくとも、『性経験の多さ=不幸』という単純な因果関係を支持するものではない。
そこは大きな問題ではない。
コンセンサスを得て非モノガミーを推進できるかとかそういう部分で社会を形成していくのが大事である。
逆にカジュアルセックスで不幸になるのはどういうときかカジュアルセックスで幸せになるのはどういうときかを明かしていく方が大事だ。
例えばモノガミー(一夫一婦制)至上主義のエリアでは相手を騙して好意を偽装して遊ぶっていうのが主流でコンセンサスをとるような綺麗な遊び方は根付かない。
不健康な恋愛関係を助長するという側面はむしろ純血主義そのものだと言える。
恋人が欲しいなら恋人を探せばいい。
結婚したいなら結婚を前提にすればいい。
カジュアルな関係が欲しいなら、それを最初から伝えればいい。
非モノガミーを望むなら、関係者全員の合意を取ればいい。
俺が処女神話や純潔主義を批判する理由は、性的経験を増やすことそのものを目的にしているからではない。
(masa)
