日本にはセックスは存在するのか?

俺は日本ではセックスレス大国であるとかセックスの頻度がカップルで低く恋愛するメリットがないことを以前から言ってきたが次はその数少ないセックスがセックスですらないという理由を語っていきたい。
確かに定義上はセックスだし棒と膣を入れる営みという意味ではセックスなのかもしれないが哲学的に突き詰めると心が接続してない状態であるためこのセックスはセックスといえるのかという疑問がある。
セックスというのは何がセックスというものたらしめるのかっていうことを俺は問うというのは大事なことだと思っている、欧米や南米などのセックスの目的と日本でのセックスの目的は明確に違うものがある。
まず、前者においてのセックスというのは愛情を深めるために身体的な快楽を伴って表現するという部分にフォーカスされてるのに対して日本はそうではなく快楽を得ることは同意してないけど義務子作り関係維持規範を目的としてセックスするのに同意するためその結果、互いの快楽を共有するというより、一方だけが快楽を得て、もう一方は義務として受け入れるという構造が生まれることがある。
しかし、その男性もいずれ心の不和を感じ性行為をするのをやりたがらなくなるし自分は性欲落ちたという暗示の中で苦しむことになるだろう。
中には中年になってもセックスの相手を変える風俗に行くなどをすることでセックスへの意欲を取り戻す男性がいるがこれはそういう圧力による心理的なしがらみから解放されてることが理由だ。
つまり、失われたのは性欲そのものではなく、「義務としてのセックス」への意欲だった可能性がある。
セックスをセックスたらしめるものはお互い戯れ感情をむき出しにぶつけ表現をしこだわりを持つことであるが義務にはその複雑なやり取りを必要としない。
つまりこれはセックスではなくて生殖かオナニーなのだ。
例えば前戯で反応面白い次にどんどん進んでいきたいというのはお互いを信頼してるからこそ起こっていくものもある。
しかしこれがないセックスにセックスをセックスたらしめる要素というものは当然ないのであろう。
反応を読み取り、感情をぶつけ合い、身体を通じてコミュニケーションを取る。
その過程が失われ、ただ義務や目的だけが残った性行為には、本来の意味でのセックスを構成する要素は欠けているのではないだろうか。
皮肉にも風俗は失ったセックスを取り戻す機能に日本ではなってる。
風俗という場では、相手に「義務」を負わせる必要がない。
純粋に「戯れ」として、感情をむき出しにぶつけ合うことができるからだ。
もちろん働いてる人は義務でやってるが本質はそこではないだろう。
彼らがそこで取り戻しているのは、性欲そのものではなく、義務や規範から解放された「純粋な戯れ」 なのだ。
家庭の中では失われてしまった、本来のセックスに近いものを、外部で擬似的に再現しているに過ぎない。
日本では、セックスが「働かされている」行為になってしまった結果、心の接続が断たれ、セックスそのものが死に絶えつつある。
義務は現象であって、本質ではない。
本質は、互いの内側にある「本気の欲望と戯れの心」が、すっかりすり減ってしまったことにある。
(masa)
