私は、性差別は双方向のものだと示唆しているのだろうか?
その通り。
私たちは性差別を、何世紀も女性は男性より権力をない状態にしたきたものだと考えてきた。
しかし事実は、何世紀もの間、両性が力をもっていなかった。
女性の役目は家族を創ることだ。
男性の役目は家族を守ることだった。
女性の役目は食べ物を集めてきて、
男性の役目は食べ物を狩ることだった。
もし両性の性別が役割を制限されているなら、それを性差別というのは正確ではない。
ただしくは性役割である。
私たちは一方への性差別主義者の世界に住んでいるわけではない。
両性への性差別主義者たちの世界に住んでいるのである。

            ー ワレン・ファレル「男性権力の神話」(1993。日本語訳2014)

本日は2025年10月10(金)です。

ワレン・ファレルの「男性権力の神話」(1993) の読書会を「男性解放の会」でやっています。
読むのは3回目にはなると思いますがファレルの本の中でも上記引用文は決定的な男性差別を指摘した文章だとあらためて思いました。

差別とは双方向的な概念です。
つまり女性も男性を差別します。

2025年になってもいまだに女性差別しか性差別が存在しないとなんとなく考えてしまう人は日本人でも多いと思いますがどうなんだろう。
つまり、女性や日本社会が日本男性を差別しているということはあるというのがこのエッセーで伝えたいことです。

さて、批評家・活動家の絓秀実がいう「1968年の思想」にはウーマン・リブ(第二派フェミニズム)も含まれると思うが、代表的なウーマン・リブ田中美津の「ふるーぷ・闘うおんな」は「新左翼」「全共闘」近傍にあり、「新左翼」「全共闘」は政治的に敗北したが、文化的・イデオロギー的には勝利し続けているというのが絓秀実の主張である。
わたしはこの認識は正しいと思っている。

ウーマンリブとフェミニズムは微妙にちがうが女性への性役割の押し付け(強制)を批判してきたことでは両者共通している。

その結果、2025年の日本で「女は家庭に戻れ」「女は会社でお茶汲みをしろ」などと男性が発言したら女性差別発言として糾弾される状況になった。

いいことだと思う。
しかし、フェミニズム(女性主義)やそれを受け入れた日本社会の過ちは、男性役割の押し付けを「男性差別」と認識することを拒否する、ないしは知性の不足から(頭が悪さから)認識することができないことである。

結果として日本男性の置かれている状況は悲惨なことになっている。

女性差別概念の受け入れで女性は「女性役割」から解放されている。
完全に解放されているとは言えないかもしれないが「女らしさ」の「強制」はほとんどの日本人が「性差別」であり、いけないことだと認識していると思う。


ジェンダーロール(性別役割)の強制、おしつけは性差別なのである。
すなわち男性もジェンダー(≒セックス)であるので、男性差別は存在しているのである。

ところが「男らしさ」の強制は批判されるどころか、日本女性からいまだに日本男性に強制されている状況である。

曰く、「デートで女に奢らない男は男らしくない」。
「結婚したら妻を養わない男は男らしくない」。

X(旧ツイッター)を覗けば上記のような「男らしさ」の強制を望む女の声にあふれている。

日本男性の自殺者数は日本女性の2倍だが自殺する男は「弱男」だという暴言まで吐く日本女は目につくところである。
まさに、死体に唾する、死体蹴りのひとでなしが常態化しているのが日本女の生態なのである。

昭和の「お茶を汲め」と女に強要する男の女バージョンのジェンダーハラスメント女だらけだと言ってもいい。

令和6年版自殺対策白書 1 自殺の現状-1  自殺統計でみた自殺者数の年次推移。
すくなくとも1978年から2023年まで男性の自殺者数は女性の自殺者数のほぼ2倍である

その原因は差別が双方向的なものだとの認識が日本社会に薄いからであると思う。
すなわち、性役割(ジェンダーロール)の押し付けこそが今は「差別」と言われる現象・概念なのである。
「女らしさ」の強制が女性差別であり「男らしさ」の強制が男性差別なのであるから差別は双方向的なものと言っているのである。

女性はジェンダーロールから解放されたが男性がジェンダーロールから解放されることを日本女性の多数派は邪魔してるとしか思えない。
あるいは意図的に無視しているのである。

だから、これからは男性の性役割(差別)からの解放が必要になってくるのである。
邪魔をする男女は男性差別主義者とみていいし(男性はチン騎士とネットジャーゴンでは言われる)、彼ら彼女らの桎梏(差別)から我々「進歩的な」男性は解放されなければならないのである。

「1968年の思想」(@絓秀実)の影響下にある人間は当時…1980年代あたりまでは「進歩的」であったが2020年代ではもはや「反動派」なのである。
絓秀実自身も「男性差別」を認識しているか怪しい。


我々は「1968年の思想」の可能性をいまだ使い尽くしていないと言えるのかもしれない。(takundo)